職人の住む町
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子供の頃からもの作りが好きで、アンプや拡声器等を人に頼まれて作ったりもしていた。
高校を卒業し、藤本ナイフに弟子入り、藤本保宏親方は知る人ぞ知る明治から続く東京ナイフの継承者、まさに名工である。この流れは現在鹿山親方一人に受け継がれ、本物の洋ナイフ職人といえば鹿山さんひとりであるといっても過言ではない。現在カスタムナイフを製造する人は逆に増え、世界的なナイフ作家もいます。しかしその技は、ほとんどがラブレスナイフと共にアメリカから輸入されたもので、製法から工具に至る迄これをなぞり、形を削り出す手法で作るもので、繊細で器用な日本人には実に向いているジャンルであると考えます。言わば広大なアメリカゆえ、必要に迫られ、有り物の鋼で作ったクラフトナイフでアマチュアから始まるデザインナイフの領域であります。そのほとんどの作家が、焼き入れや、鍛接などは専門家にまかせています。
見映えの良い洋ナイフの作家達は、何故か納まっていて他へ目を向けようとしない傾向が有るように思われます。日本の洋ナイフ、唯一の職人がいるのに、スプリングやブレ−ドの焼き入れ、様々な細かい細工など、何故学ぼうとしないのか、もったいない話です。
過去凄い人達が別の親方に師事し学んでいる姿を何人もみています。自己の世界を追い求めるのは良いとしても、明治から伝わる日本の洋ナイフの世界、学べるだけ学べばと考えます。優れた作家で継承してくれる人がいれば、幾らでも教えてあげたいとのことでした。全てを出来るプロが一人しかいないのに残念なことです。
■ 歴史
洋ナイフ作りが明確に始まったのは明治頃と思います。

  高校を卒業してから藤本保宏氏に師事しました。ほとんどが中学出という中で風当たりが強く、仲間より常に早く起きて、夜は最後迄働きました。それが功を奏して、10年かかって覚える事を4年ほどで修得していきました。当時は大変忙しかったのですが、夜間の電力が60ボルトぐらいしかなく、作業服のまま横になり、回復すると即仕事をしました。
冬は今のように暖かくなく、暖房もない状態ですから厳しいものでした。薪を燃やす為ススで、全員顔が真っ黒になったものです。親方が亡くなって皆辞めていきました。
昭和62年に、親方の遺志を継ぐ形で独立しました。
  ホールディングナイフである事。プロがいなくなったナイフの世界ゆえに、最後のプロとして言わせてもらうなら、注文は何個でも失敗せずに同じ物が作れる事。常に完成品を作れることは、販売価格を安くとどめる事に繋がります。プロならば当たり前のことですが、昨今の流れから一般の人に再認識してもらいたいので敢えて特徴としました。飾るシースナイフは、アマチュア受けするものが多く、プロの感覚より、アマチュア感覚の延長線にあるような気がします。ホールディングナイフは見る者の感覚と作る者の両者の感覚が常に必要になります。それはプロとしての姿勢が基本となります。又、作る作品の難しさという点でも、制作者として、はるかに面白い物であります。
 
  毎日勉強
  基本の技に真剣に挑戦してほしい。明治から伝わる技は、他国と比べても優るとも劣る物ではなく、素晴らしい感覚を持っている人がいる訳ですから修得してほしいと願います。

 

職人名 鹿山利明(しかやま としあき)
雅号又は銘  
生年月日 昭和8年12月31日
職種(種) カスタムナイフ
作品(アイテム) カスタムナイフ
技数(積)
弟子入りしてから手伝えるような状態になるまでの期間
覚えなければならない技は非常に多く、10年からといった感じです。
職人としてあくまでも実用性を追求します。材質選びは、洋ナイフの世界はアマチュアが多く新たな材料が出れば即挑戦する者が出てきます。当然、私も一通り扱ってみます。
技の種類や工程
全部品を一人で作ります。従ってパーツが多くなれば、設計から行いますから工程はそれに比例して増えていきます。実はホールディングナイフは洋ナイフの中で最も難しい為、作家は行いません。技を知って頂く為にも、これにこだわって作っています。
現在一般的な同種のホールディングナイフは、ほとんどがプレスで抜いて分業制を敷いています。
現在の立場(役)
次代 他  
   


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