職人の住む町
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薩摩つげ櫛の雄“喜多親方”日本で最初に
柘植ブラシを製作

「 つげになりたや薩摩のつげに諸国娘の手に渡ろう 」
鹿児島県は、品質の良いツゲの木が生育することで、江戸の
頃よりこのように謳われ、その名を全国に知られていました
きっかけは、江戸に至るまでの柘植材のルートにあります。
材は鹿児島から大阪に送られそれが櫛、あるいは材として
全国に流れていたのです。
親方の家は柘植の生産者側の元締め、しかも大阪の材木商も
有名な人で叔父にあたる方で、喜多家は柘植の名門でした。
昭和初期には貨車数台に柘植材を乗せて送っていたのです。
この薩摩つげの生産も平穏な状態ばかりではなく、今から40
年ほど前に害虫が大発生し、最大のピンチが訪れました。
しかし、その後の駆除対策と積極的な植樹により徐々に回復
し、今では櫛製作の需要に応じられるほど復活しました。
但し、17cmクラスの大きい櫛を作れるような太いツゲは
すでに入手できない状況にあるようです。

常に先を見据えてきた喜多親方
他の国内ツゲ産地 & 外材ツゲの流入と不明確な産地表示
喜多親方は、本物の薩摩つげ材を入手し易いという有利性を
どのように活かすかを常に試行錯誤してきました。つげ櫛の
材を他の職人のものよりも厚くし、丈夫さを心がけて品質の
良さをアピールしてきたのはその好例です。
また、世の中の流行を常に研究し、新しい髪型に対応する為
に、つげの特性を活かしたブラシの開発を早くから手がけ、
実用新案を取りました。
本来は他の職人がツゲブラシを作る場合、親方の許可を必要
としますが、許諾を求めてきたのは、ほんの数名だけだった
とのこと。しかし、親方は「多くの人がつげの製品に注目を
してくれるきっかけになれば満足」と鷹揚に笑っています。
産地に生きる職人として、本物の素材を知り尽くし、その
利点を活かす努力、職人としての真摯な姿勢、その人生観と
自然な語り口からも、是非とも紹介したい職人の一人です。

※その他の国内つげ産地について

日本でつげの産地として名高いその他の産地は東京の伊豆七島です
「島黄楊」(しまつげ)と呼ばれるここのつげは、朝熊黄楊
(あさまつげ)という種類です。薩摩つげはこの種に台湾系
のつげが交配されているため、木質は若干違うものの、いず
れも櫛材として素晴らしい木材です。
薩摩つげの死滅に近い危機の後、東京の櫛職人にとって頼み
の綱であった伊豆七島のつげでしたが、このうちの三宅島の
つげは、2000年に起きた大噴火により全滅してしまいま
した。その他、御蔵島でもつげは生育しますが、薩摩や三宅
島のつげに比べると、地質のせいか柔らかで粘りが強く、
櫛材として、または将棋の駒材として高い評価を得ています

外材つげの流入と不明確な産地表示
現在、薩摩、伊豆七島の島つげなどの状況から国産の木材に
は余裕がないのです。従ってそれらで作られる櫛は、どうし
ても高価なものになります。そこで櫛用としてかなりの種の
外材が海外から輸入されています。ある業者が輸入している
外材を実際に見たことがありますが、シャムという別の木材
は、国産より若干黄色が強く、見ためには驚くほど薩摩つげ
と似ています。こうした各種外材と比べた場合、職人が言う
には、やはり木の色気と言うか、艶はやはり朝熊つげが一番 とのことでした。木が分かる人や木櫛の好きな人であれば、
格別とのことです。残念なのは、この外材を使用している
職人は沢山いるのにその商品表記をほとんど見かけません。
「薩摩つげ」として販売している職人がいると思われます。
この外材で作る櫛の需要もあるのですから、堂々と表示し
製作・販売して欲しいものです。


  20歳頃から始めました。 とはいえ家業ですから子供の時から見て、ときおり手伝うと言う門前の小僧であり、やると決まった当初から手伝える状態でした。従って修行といった厳しさはすでにありません。人様が辛い修行時代を語りますが実に楽しく今日までやってきました。
 

櫛の場合、出来が良いとか丁寧であるとかは、価格面と比例します。黄楊櫛のプロであれば,仕上げの早さなど職人個人の問題は別にして、それなりの櫛は対応できます。私の場合、職人としての今後を考えており、黄楊の産地としての考え方です。
例えば、安い飲み屋に言き、マグロの味に文句をいう人がいます。状況判断が出来ないのは粋ではありません。この場合適正価格の商品で当たり前です。価格を高くすればそれなりに良いものは出せます。これを一つ頭の中に入れてください。もう一つのは、水揚げをする港の中にある飲み屋の味と安さです。
これも考えて下さい。私の櫛に対する姿勢ですが、黄楊の木の産地におり、その有利性を考えれば他とはかなり違いがあります。すなわち良いマグロの水揚げ港の中にいる訳です。当然、高価な形で売るより新鮮で多くの人たちに喜んで頂くことが重要です。
櫛と言うものは日常の道具です。そして日々の環境の中で育ったものです。江戸時代のように髪を飾る櫛はあまりいらなくなり、もはや美術品ではありません。今度は髪自体の環境から考えても、昔の空気の清浄感と比べ、今の空気は汚れておりその意味では比べ物になりません。従って、昔は長い髪でも汚れにくかったので、頻繁には洗う必要ありません。梳櫛で落として充分対応できたのです。今は毎日、あるいは一日おき程度に髪を洗わなければ落ち着きません。結果、理美容の世界の発展は目覚しく、シャンプーなども素晴らしいものがあります。現代は細かい梳き櫛で汚れを取るといった目的はなくなりました。細かい御殿櫛などの梳櫛類は、ゴミ、フケ、そしてダニやシラミなどを取る意味で細かい歯でした。当然、人様の前で使う櫛ではありません。従って、この点を考え合わせ今の時代の“日常的な櫛とは何か”を考えました。不要な手間をカットし、価格を考え日常に使う最高の道具としました。高級なイメージは不要です。それでも、名工会に櫛として見せるのは、技を見せる意味も多少感じますから、特別な手間と仕様で紹介していくつもりです。
以上が私の櫛の技を構成している考え方であります。

過去の受賞や作品
私のブラシが鹿児島の特産品の部門で市長賞を頂いたことがあり、これが認められたような結果となり嬉しかったことです。道具であり展覧会などは、もとより縁がありません。
それと皇太子様が鹿児島へお寄り頂いたことがあります。当店にお立ち寄り頂き、黄楊櫛をお求め頂きました。

自己作品の特徴
黄楊の良い材料があり、これを活かした日常の道具として櫛を作っています。もう一つ、先に書いてしまいましたが私は時代の変化に合わせ職人の伝統をここに活かし、変わって行くことを考えました。ブラシですが,それを拵える櫛の職人がいても良いと思いました。
興味を持ち始めた頃は、参考にするブラシの手本がありません。自分なりの試みをいろいろとします。黄楊のピンを単に埋め込んだブラシから始りました。これは梳かす時にかなりの力がいる為に失敗でした。理由は、一般のブラシを考えて下さい。硬い豚毛や樹脂製で出来ており、自在にたわむのです。その面に沿って髪がすべります。力が分散し、梳かす時の抵抗が少なくなると言うわけです。黄楊のピンは歪まずに髪が揃って、その抵抗をそのまま受けてしまったのです。この滑りがヒントとなり、ピンの太さを変化させ微妙に髪をそれに添って流し多面に力を分散させるようにしました。髪にやさしいブラシの完成です。この力の問題から、左手の人のブラシに加わる力の方向なども必然的にわかりました。
今も当時の癖が付いており、思うとすぐに試みます。
櫛のように、携帯用の小さいブラシも用意しました。大切なポイントですが、黄楊櫛は一生、あるいは代々使えるものであり子供の頃から聞かされていました。ブラシを作る上でもこれを肝に銘じています。 そこで、折りたたみのブラシですが、この要求があったとき製作はうまく作れました。しかしたたむ部分と、代々使えると言う言葉が気になり、結局は納得できずにやめました。いろいろあった技に対する葛藤ですが、私の姿勢を見て頂くことが、私の商品の特徴を掴んで頂けると思い説明させて頂きました。

 
  薩摩の柘植の一職人としての座右の銘はありませんが、ともかく日常の使う道具であり、『絶対に丈夫である事』これを常に心掛けています。櫛の場合、普通の櫛職人の板取りより常に厚くしています。又、丸太の中での不安定な芯の部分は必ず除外しています。
  常に時代を捉え、考えること、それを行動に移せる職人であること。ようは “前進する自覚”を常に持ってほしいと思っています。

 

職人名 喜多忠男
雅号又は銘  
生年月日 昭和21年11月15日 次代 喜多正孝 49年1月15日
職種(種) つげ櫛 & つげブラシ
作品(アイテム)  
技数(積)
弟子入りしてから手伝えるような状態になるまでの期間
約5年ですが、その人の資質や性格、器用さで違います。結局は地道に努力し,真面目に頑張る人がいいようです。始め器用でうまくいっても、根気がなく駄目な人がいます。
大切なのは自分自身を育てていく姿勢だと思います。
技の種類や工程
現在の立場(役) 生涯現役
次代 他  
   


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